2013年11月11日

児童相談所の介入に切れる親

児童相談所の介入に切れる親

 



 

 読売新聞(02月21日17時09分)の記事。「虐待を受けた児童の保護を巡り、児童相談所(児相)の職員が保護者から暴言や暴行を受けるケースが(中略)記録のある1998年度の5倍以上に増えた」らしい。


 なんでも、立入調査の権限が強化された反動らしいが、なんとも凄まじいね。殴りかかる、包丁で切りつける、深夜まで居座る、電話やファクスで執拗に抗議(形態としてはストーカーと同じだね)、「殺すぞ」と電話で脅迫された例まで。
 

 形態は様々でも共通しているのは短絡思考。カッとなって前後の見境がつかない。




 他山の石だ。ぼくも瞬間湯沸かし器で、突然怒りだすらしいし、途中で自覚しても制御が効かなかったり完全に手遅れだったり、という場面はしょっちゅう経験してきた。おかげでずいぶん損をしてきたし、もちろんひとにも迷惑をかけてきたし思い出すだけで恥ずかしくて情けなくて冷や汗が出て死にたくなる。上の例でも、暴力はともかく暴言くらいは納得できてしまう部分があるのでどうにも始末に負えないよ。頭に血が上ってたら「殺すぞ」くらい簡単に口をついて出そう。うああ。ただまあ、自分が絶対的に正しいと確信している時に限るとは思うけど。確信犯という言葉も世の中にはあるし……。




 かといって、こういう親に同情する気は露ほどもなし。虐待をする親などむしろ刑務所に、もしくはその筋の医療機関に、どんどんぶちこんで社会から隔離すべきだと本気で思っている。むろん、一度虐待の事実が明らかになった人間はよほどの社会性回復がみとめられない限りは一生閉じこめたまま強制労働でもさせれば――てのはさすがにやりすぎだが、子どもや家族をもたせてはいけないと思うね。くりかえすと思うよ。刷り込まれていると思うからね。死んでもなおらないはずだ。子どもが同じことをその子どもにくりかえすからね。連鎖するんだ。進化論なんか間違ってるね。




 問題外なのは、客観的にみてこの手の親に子どもを養育する能力が明らかに欠落しているということに、本人に自覚がない、もしくは自覚があっても抑制できないという部分。一言でいえばただのバカ。赤の他人であるばかりか、親自身のの所行に問題があると認められて子どもを保護している相談所職員に向かって牙を剥くなんざ、自制心のかけらもないから子どもを虐待しちゃってますと大声でわめき散らしているようなもの。これじゃ子どもを返すなど元から論外。むしろその程度の権限すら今までなかったらしいことに呆然とさせられるくらいだ。




 で、この記事に関してぼくが本当にいいたいことは別にある。


 この手の“ただのバカ”はむしろわかりやすくていい。証拠があればこうして介入できる機関もあるし、証拠がなくても周囲から見れば子どもが酷い目に遭っていることはそれとなく察知できるし、社会がどうにかできる芽もあるだろう。簡単な問題ではないかもしれないが、少なくとも問題があることだけは周囲にも理解してもらえる。


 問題は、ただのバカではない虐待者がいるのではないかということ。


 ちょっと考えれば、上のような行為をすれば社会からつまはじきにされたり非難を免れ得ないことくらい想像できる。だから“ふつうの”人間なら自制する。実際、世の大部分の人間は上のような行為は行わない。


 だがちょっと待て? 行為が明示的に行われなければ、虐待はないの?


 並程度の思考と常識さえあれば、世間から後ろ指さされるような行動はふつう抑制される。だが家庭ってのは閉鎖環境だし、世の中には「しつけ」という便利な言葉があるからねえ。実際、虐待で子どもを殺す親が必ず口にするセリフも「しつけのつもりだった」。この例は、そんないいわけが通ると思ってる時点で狂ってるとしか思えないが、「しつけ」の美名のもとに、ほんとうのしつけが行われているのは一体どれくらいの割合になるやら。


 社会常識や慣習はわれわれを守るためのものではあるが、束縛する強力な抑制であることもまちがいない。だれしも「しつけ」は受けてきたし、そのおかげで社会でどうにか生きていけていることもまちがいないが、子どものころに受けたそういうものへの怒りや憤りがないとはいえないだろう。


 だから、自分の子どもに復讐する。社会が必然として求める「しつけ」という機能を利用して。子どもはそれによって社会性を身につけていくが、同時に親が子どものころに感じていた怒りや憤りや怨恨をも受け継いではいないか?


 その程度のことはしかたないことかもしれないし、世の大部分のひとにとってはそれは問題にならないほど軽微な傷でしかないのかもしれないが。


「しつけ」の美名のもとに、自分の子どもをあやつり人形のようにいじくりまわし、潜在意識に刻みこまれた怒りや憤りや怨恨を晴らしている親がいないとだれにいえる? 否、そういう、親になるに値しないカスが堂々と「よい父親」「よい母親」と評価されているのが、むしろ常態なのではないか――と、ぼくは強く疑っている。


 だからぼくは、結婚しない。子どもなんか絶対につくらない。


 幸せな家庭をつくる能力などぼくにはない。


 地獄のように不幸な家庭をつくる能力なら、自信を持って「ある」と断言できるがね。それがたとえ、世間から見て「普通」の、どこにでもある取り立てて問題のあるようには見えない家庭を取り繕うことができたとしても、ね。


 この世界は地獄だ。どこにでもある、取り立てて大きな問題など傍目にはどこにも見あたらないような、どうしようもない地獄だ。


 むろん、本当に幸せな家庭もたくさんあるとは思うけど、さ。


 ぼくには無縁のどこかにね。






 さて、児童相談所では親の暴力に対抗するために「刺股(さすまた)」を配備したらしい。ははは。刺股だってさ。はははは。捕り物か。笑いごとじゃねえってか? その笑いごとじゃない部分がまた笑える。冗談みたいな世の中だ。笑える。笑える。この世はおもしろいことでいっぱいだ。


 なにせ地獄だからね。皮一枚はがしゃ、いくらでも笑える事象は隠れているだろうさ。そして「大家族」や「隣近所」という抑制機能が外れ、「個人の権利」や「自由」や「夢」が礼賛される時代において、そんな皮一枚がどんどん剥がれてきてるだけなのさ。


 そういえば、何日か前の別の記事では、他人の不幸は実際に「蜜の味」が出ていることが実験で確認されたと報告されていたよ。自分と同じ出発点で、自分には届かなかった成功に達しただれかがその後不幸になると、食事をしているときに快感を感じる部位だかと同じところが活性化するんだってね。


 人間てほんとに、人生を賭けるに値しない。


 そんなひとばかりじゃないだろうけど、少なくともぼくには無縁だね。






 相談所の続き。「過度な警備は気軽に相談に来られない雰囲気を招く」と指摘する声もあるらしいが、刺股がおいてあるのを見つけたら確かに「なんだこりゃ」となるだろうね。でももう一個紹介されていた装備、「防刃チョッキ」は秀逸だと思うよ。これは必要だ。全国に装備したほうがいいんじゃないかね。




 いいことなんざありゃしねえ。

 この世の中には。










※この記事は2009-02-22 13:15:11にアメブロに投稿した記事を移転したものです。

なお、移転元の記事は削除済です。




posted by 青木無常 at 20:00| デリー 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 愚挙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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