2013年11月17日

シャツIN



 春だというのにやけに暑い。体感的に、GWあたりの暑さだ。かたくなにシャツINを続けてきたおれも、しかたなしに裾を外に出して歩いている。

 暑いからじゃない。シャツをしまおうが出そうがたいしてかわらない。恥ずかしいから出しているだけ。裾を出すのに、なんのメリットも感じていない。日本はイヤな国だ。




 シャツの裾を出すのが流行りだしたのはいつごろのことだったか。ずいぶん時間が経ったのだろうが、私にとってはあっというまのできごとだった。流行りはじめのころは、あんかっこうは東南アジア人しかやっていないと嘲笑されていたものだった。東南アジアのひとたちをばかにする無意識も混入したいやらしさ溢れるものいいだ。当時はシャツの裾をだすことに対して非寛容な風潮だったというわけだ。いまも何もかわっていない。非寛容の対象が逆転しただけ。この国には思考停止したバカしか存在しない。それに屈服したおれは、さらなる愚か者なのだろう。
 


 脱オタクファッションガイドというサイトは以前から知っていた。うなずける部分も多々ある。オタクというのは確かに世間の趨勢に興味をもたず、自分が周囲から浮きまくっていることにもきわめて鈍感な連中なのだろう。それを見て「ヘンだ」と思う感覚も別におかしいとは思わない。



 そもそもオタクという言葉自体、ながいあいだ軽蔑および自嘲の対象であるとともに、そのコミュニティ内に限っては尊称としての機能も付与されていた。太古のむかしにはマニアという言葉で使われていた分野が、機能拡張して再構築された言葉だ。だから、おれオタクだからという自嘲の言葉もおれはあまり使用できない。その分野において深く深く浸りきったがゆえのディープな、そして大部分は無用の知識の大家の存在を垣間見ているがゆえに、自分などオタクでも最下層に位置する中途半端な存在でしかないとの卑下が二重におのれを圧し潰しているのだ。



 周囲の視線が気になりだしたら、もうどうしようもない。なかば意地でシャツINを続けてきたが限界だ。私に限界がくるころには、すでに別の風潮が胎動し始めているはずだから、いずれ近いうちに別の方面で、自分がイタい外見や行為をしていることに気づかされるのだろう。日本はイヤな国だ。



 最近はお歳暮やお中元といった風習もあまり重要視されてはいないかもしれないが、以前、外国人から見るこれらの風習は奇異で無意味にうつるといった内容の報告がテレビ番組あたりで流されていた。その報告の要旨はそのあとにあり、いわく「長年日本のビジネス社会で生活していると、外国人も日本の風習に染まりはじめる」というものだった。これも日本的圧力に圧し潰された例だったのだろう。



 悪いことばかりじゃあるまい。よい面だってたくさんあるのだろう。だがおれのような「毛色のちがう」人間にとって、日本が暮らしよい国だったことが、果たしてあったのだろうか。

 周囲でとうぜんのように興味をもたれていたさまざまなことどもには、おれはまったく興味はなかった。おれの興味ある対象については、だれも興味をもっていないことを思い知らされてきた。




 幼いころは怪獣が好きだった。訂正。いまでも怪獣が好きだ。ただし、曲がり曲がってようやく戻ってきたというところが真実。

 怪獣怪獣と騒いでいたおれに、怪獣きちがいという蔑称が浴びせられ始めたのも、そんなに成長してからのことではない。怪獣にくわしいおれを尊敬してくれる友だちなど最初からいた記憶がない。ほとんど最初から、おれは怪獣きちがいとしてのおれしか知らなかった。

 おやじに「怪獣はそろそろ卒業だな」と再三いわれ、かたくなに抵抗をつづけてきたのは意地になっていたからでは決してない。怪獣が好きで好きでたまらなかっただけなのに。四囲の同年代の子どもらの成長にあわせて、自分も成長しなければならないという義務感はたしかにおれを苦しめていた。自分はおかしいのだろうかという恐怖はすでにあのころから、おれの心の大部分をマグマのように占拠して苦しめていたと思う。

 怪獣をとりあげるような真似はせず、おやじは「世界妖怪図鑑」「日本妖怪図鑑」という子ども向けの本を買い与えた。他愛もない子どもだましの本で、中にかかれていた内容も情報としてはきわめていいかげんな部分も少なくはなかったが、古今東西の名画を中心に掲載していたのがおやじのお眼鏡にかなったのだろう。単純なガキであるおれはまんまと策略にはまり、怪獣からはやや離れて「妖怪妖怪」と嬉々として叫び始めた。幸いにも妖怪きちがいという芳名を賜ることはなかったが、もしかしたらその原因は周囲のガキどもが多少なりともおとなになっていたからというよりは、おれ自身が自分の好きなものに対する周囲の理解と共感をあきらめてしまっていたからかもしれない。

 だが本質的に何もかわっていない以上、歴史はくりかえす。「もうそろそろ妖怪は卒業だな」冷徹に口にされた言葉は、ペテンにかけられた感覚をおれに教えてくれた。

 だから、どんな紆余曲折を経て、何をどう卒業しようと、おれはいまでもあのころのおれのままだ。自分の好きなものを好きといってもだれにも理解されぬまま、ただ好きと表明するだけで軽蔑と冷笑を感じるがために自分の好きなものさえだれにも好きと告げずにたったひとりで、中途半端な位置からそれを見つめつづけるだけ。




 たまには、同調してくれるひとが現れないでもない。でも、おれの好きなものをおれと同じように好きなひとがいるはずもなく、意見のささいなずれや興味の方向のささやかなちがいが、そして何よりも、興味の深さのちがいが(特におれのほうが浅い場合に顕著に)、おれにとってはとてつもない距離になる。むしろ、興味の対象はおれとはちがう場所にあり、おれが好きなものを好きでいることに対して寛容であるひとのほうが、よほど友だちとしては長く保つ。

 たいした長さではないけれど。




 欠けているのだろう。

 欠けているのだろう。ひととしてあたりまえの、いろいろなものが。

 その欠けているものの正体すらわからないのだから、おれにはどうしようもない。むろん、だれひとり助けてくれるひとも、ヒントを与えてくれるひとすらいない。いや、サインくらいなら出ているのかもしれないが、おれには届かないのだから、おれにとっては冷たく突き放されるのと何ら変わりはない。




 大学のとき、おれは一時期サークル内の同級生につまはじきにされていた。なんでも、ひとのことをバカにする態度を露骨にとっていたことが原因らしい。イヤなサークルで、学級会みたいに、つまはじきという問題を解決するために先輩の命令でおれをも交えた話し合いの場が設けられ、おれははじめて自分がそんなふうに思われていたことを知った。そう思うのならはっきりいってくれればよかったじゃないかと、恨みがましくおれがいうと、返ってきた反応は「いいおとななんだから、自分で気づくべきだ」。そういったヤツは、サークル内では比較的おれに同情的で、おそらくは最後まで友だちにいちばん近い位置にいてくれたヤツだった(おれの生涯を通して、結婚式に招待してくれたのもヤツひとりだけなのだ)。

 その後、この心ない先輩の仕打ちにどうにか便乗し、ヤツとおれのあいだだけでもいいたいことをいえたためかどうか、つまはじきの立場からは脱することができた。敬して遠ざけられるくらいの地位に。




 おとななんだから自分でわかれという理屈はきわめてふつうの、とうぜんの感覚なのだろう。それは「おとななんだから」という部分を省かれたかたちで、ものごころついたときから陰に陽に、おれにまとわりついてきたものなのだ。わからないからどうしようもない、おかしなところがあるならだれか教えてくれ。おれの叫びは一貫して封殺されてきた。あるいは忠告によってささやかに修正された部分もあろうし、忠告におれ自身が気づかなかったり、どうしようもなかったり、かたくなに変わることを拒否して今日まできた部分もあるかもしれない。共通しているのは、自分ではわからないということ。自分でわかれば、どうにかしようと努力してきた。うまくいった部分もないではない。



 だが、なぜシャツを出さねばならないのだ?

 暑い季節なら、裾を出すのはきわめて合理的だ。だがそれ以前に、いっそ裸に近いかっこうになってしまうか、中東あたりのように太陽光を遮断して温度を変える方法だって悪くはないんじゃないか。いや、このへんは屁理屈だな。別にシャツをださなくたって耐えられないほどちがいがあるわけじゃない。シャツをだすことに感覚的に違和感を感じるほかにもおれには理由がある。ズボンの尻ポケットから財布を出し入れするのがうまくいかなくて非常に煩わしい――このあたりは、慣れればどうということもなくなるだろうが。おれは腹が弱くてちょっと冷やしただけですぐに下してしまうのだ。夏で暑けりゃそんなことも起こらないだろうというヤツは、腹が弱いヤツの気持ちなど一生理解できぬまま幸福に死んでいけるのだろう。うらやましい話だ。ちょっとしたことで下すということは、簡単には用を足しにいけない場所や状況でも腹が痛くなるのだということを想像することすらできない、否、しないのだろう。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな! 弱いものの気持ちを斟酌することを思いつきさえしない"ふつうのひと"という名の強者である白痴が、えらそうに役にも立たない愚言を脊髄反射的に口にして、自分より下の者に助言をくれてやったと悦に入っているのだ。ひとを傷つけた自覚のかけらすらないのだろう。




 そんなことを叫びながら街を歩くわけにもいかず、哀しいことにおれは今日もまた裾をだして街を歩いている。「シャツIN」という蔑称がおれのところまで届いたから、しかたなしにとはいえ恥をかく機会を減らすことはできたが、おれの風体や心理や行動には、おれには届かない蔑称のほうが圧倒的に多すぎる。

 幻? その言葉も意味はない。自分だけが恐れている幻の恐怖もたくさんあるかもしれないが、どちらかといえば、自分が恐れている以上に、見下されている部分のほうが多いとおれは経験的に知っている。

 どうにかしたい。

 しかたなしにシャツをだして街を歩くのではなく――堂々とシャツの裾をベルトの内側にたくしこんで、だれにも笑われずに街を歩けるように、おれはなりたいのだ。

 たったそれだけ。




 日本はイヤな国だ。いや。たぶん――日本に限ったことじゃないだろう。この世界に、おれが平穏な心で生きることができる場所など、たぶんどこにもない。

 ずっと、子どものころから感じつづけてきたこと。だからって哀しみが薄れるわけじゃない。むしろ日増しに――膨張をつづけている。




※この記事は2009-04-19 20:12:35にアメブロに投稿した記事を移転したものです。

なお、移転元の記事は削除済です。






posted by 青木無常 at 20:00| デリー 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 不安・恐怖 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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