2013年12月30日

餓死していくガキども







「子どもを愛さない母親はいない」とかいう脳薄弱なご託宣はもうたくさんだと、子どもを餓死させた奈良の母親のニュースを目にするたびに溜飲をさげている。

 いや、だって溜飲がさがるのは、以前から「バカじゃねえのか」とこの手のセリフにいらいらさせられどおしだったからだ。おれがいくら声高に「子どもを愛さない母親なんざそこらじゅうにごろごろしてるわ!」と主張しても、あまりはかばかしい反応はなく受け流されるどころか、届いてすらいないんじゃないかという世の脊髄反射ぶりに腹が立って腹が立ってしかたがなかったからだ。
 
 




 この母親は、はっきりと、長子に対する愛情がわかなかったことを口にしている。ドラマは見ていないが、萩尾望都の『イグアナの娘』がヒットしたのも現実を反映しているからじゃないのか。




 おれは以前、冒頭のセリフを親戚のおばさんから手紙でいわれたことがある。おれがあまりにも実家に連絡をとらないから、母親が愚痴でもこぼしているんだろう。その親戚のおばさんは、子どもをガンでなくしている(子ども、といっても成人して結婚もして子どもを産んでからなくなったのではあるけれど)から、このセリフをないがしろにできるわけではない。が、自分の家族に当てはまるとはカケラも思えないのは曲げようのない(また曲げるつもりもカケラもない)事実だ。




 子どもを愛さない母親なんざ、そこらじゅうにごまんといる。何度でもいってやる。子どもを愛さない母親なんざ、そこらじゅうにごろごろしてる。




 ACには特徴がある。と、思う。長子はないがしろにされる。上述の、奈良の母親も、かわいいと思えないのは長子だと限定している記事を何度か見かけた。どういうからくりかは知らないが、長子に愛情を感じることができず、むしろ憎悪や嫌悪を反映させ、次子にべったり、という傾向があるようだ。

 次子であるおれには、気持ち悪いことこの上ない。




 子どものころ、おれはよく入院させられていた。盲腸にかかったこともあり、当時は手術しないと治らないとされていたのでこれはしかたがなかったのだろうが、その他にも、すくなくとも二、三回は病院に放りこまれていた。が、ほんとうに必要な入院だったのか、と以前からつよく疑問に感じている。

 なぜかって? 母親がべったりつきそっていたからだ。ベッドのわきにある畳にふとんを持ち込み、つきっきりの看病だ。ベッドのわきに畳がある病院など、いま思うと異様きわまりない感じだが、当時違和感がなかったのは、入院先が小児病棟か何かで他にもそういう例は珍しくなかったからかもしれない。もっとも、同時に入院していた他の子どもたちも同じようにされていたかどうかはまったく記憶にはない。

 入院まではいかなくとも、熱を出してよく大騒ぎをされていた。覚えているのは、籐製の乳母車に押し込まれて医者につれていかれたことだ。乳母車といっても、非常に窮屈なイメージしかないし、そもそも記憶があることからして、そんなものにおしこめられるには不適当な程度には成長していた年代であったと思う。むろん、楽しい記憶でないのは当然だ。父親の指示でハイヤーを呼ばれたことも何回かあるが、それはもうすこし大きくなって乳母車におしこむことができなくなったからではないのかと思う。

 父親は倹約家で、おれたち兄弟は非常にケチであると非難していたが、必要な出費はおしまない部分もあった。ハイヤーを呼ぶなどやりすぎではないかとも思うが、こういった処置を躊躇なく行える父親には感心も感謝もしている。

 だが、見捨てられ恐怖につき動かされて過剰に反応しているだけの母親の擬似愛にふりまわされていただけではなかったのかと深く疑ってもいる。

 おれが幼少のころ病気がちに「されていた」のは、まちがいなく母親のせいだ。自分に頼らなければ生きていけない幼児が次第に手を離れていくにつれ、見放され恐怖がむくむくと首をもたげて子どもを病弱という立場に追いやり、自分が必要とされていることを実感しようと狂おしくあがきつづけた結果の被害者が、おれなのだ。




 母親の愛情飢餓や見捨てられ恐怖の証拠はもうひとつある。いずれ機会があればくわしく語りたいが、新興宗教に入信していたのだ。否、いまも、入信している。神様はいる、と手紙に書き送ってきたこともある。気持ち悪いにもほどがある。




 子どもに愛情がわかないなどと自覚し、それを口にする母親がニュースになるのは時代だろう。おれたちが子どものころは、そんなことをちらりとでも口にしようものなら、人非人あつかいされるのだオチであっただろう。いや、いまでもご近所さんに面と向かってそんなことを口にする度胸のある母親はあまりいまい。脊髄反射的な「常識」の呪縛は、社会を正常な状態に保つために、ことほどさように強固で融通がきかない。




 また、長子に愛情がいかない分、次子にべったりしている気持ち悪い母親たちは、次子には愛情を抱いているのか、というと、感情的には「それはあり得ない」と断言したい。理性的には、断言できるほど普遍的な事象ではないのかもしれないくらいには思うが。

 愛情飢餓、見捨てられ恐怖の投影対象にべったり依存する、おぞましいことこの上ない状態を愛情などと同義に見られるとすれば、この世に愛情など存在しない、もしくは、愛情という言葉の定義は世間一般に流布されているそれとは似ても似つかぬものとして大幅に修正する必要がある。




 もっとも、おれはそこまで絶望してはいない。この世には、ほんとうの意味での「愛情」も存在していると思う。ただおれたちのような人間には無縁なだけで。




 もう「子どもを愛さない母親はいない」とかいう脳薄弱なご託宣を口にするのは、やめにしよう。こんな言葉は、「ひと一人の命は地球よりも重い」とか「地球に優しい」とかいうご託宣と同じく、まるで意味も意義もない。人間一人の命の重さはゴキブリ一匹の命の重さと等価だし、地球に優しいとかいわれている状況は、地球にとってはなんの関わりもなく、ただ人間にとって都合の悪い環境の変化をどうにかしようというきわめてエゴイスティックな動機に裏付けられた耳ざわりのいいキャッチフレーズ以外のなにものでもない。

 同様に、子どもを愛さない親はいないというすさまじくしらじらしく実のない言葉は、社会を維持する必要のある連中が宗教とか倫理とかいうものを都合よくいじくりまわして流布・固定させた、社会を維持するに都合のよい幻想のひとつにすぎないのだ。

 だがそんな幻想は、とっくのむかしに崩壊している。幻想が崩壊したのに、言葉だけが粘着質に生き延びて、人々を自縄自縛しているのだ。

 もはや、社会などという幻想も維持されてはいず崩壊の坂を急激にころげ落ちていく一方ではないか。そこで愛情などという幻想をひとに押し付けるのは、もうやめにしてくれ。苦痛を維持拡大するほかに、なんの役にも立ってはいない。




 愛情は、そんなお題目をとなえる必要もなく、ただそこに自然に、なにげなく、だが確固として存在しているだろう。われわれには無縁な場所で。




 だが大部分の「愛情」は錯覚にすぎない。愛情という美名にごてごてと粗忽に飾られてその醜悪な実態を隠された、愛情飢餓と見捨てられ恐怖の発露に他ならない。

 そんなものに育てられたおれたちは、世界に希望を感じられることもなく、ただ生きるため、飯を食うためだけに愛情飢餓の偽りと憎悪といらだちにまみれた泥沼のような冷酷な「世間」で、未来への不安と絶望に日々さいなまれつづけながら「自殺はだめだ」とか「生きることはすばらしいことだ」とか無慮無数の脊髄反射的お題目に縛られてぬるい地獄でふやけた皮膚が内臓まで腐り落ちるまで、腐臭を発しながら、そしておのれの発する腐臭への恐怖にさいなまれながら、ただ死ぬまで生きていくしかないのだ。

 ただ、死ぬまで生きていくしかないのだ。

 なんという絶望。






※この記事は2010-03-07 13:18:46にアメブロに投稿した記事を移転したものです。

なお、移転元の記事は削除済です。






【関連する記事】
posted by 青木無常 at 20:00| デリー 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/383728588

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。